マイスター 1924年 - 1945年

新しいクラブの名前は“ブラウ=ヴァイス・シャルケ24”となる可能性もあっただろう。しかし1924年1月5日に集まったTuSシャルケ77のサッカー選手たちは、新しいクラブを最終的に“FCシャルケ04”と名付けることにした。彼らは自分たちが既に20年前から活動していることを示したかったのだ。そのために創立年の04は絶対にクラブ名に入っていなければならなかった。新クラブの初代会長になったのは竪坑櫓“コンソリデーション”資材管理責任者のフリッツ・ウンケルだ。ウンケルはかつて体操クラブの会長だったが、彼のサッカーにかける情熱は、いつしか体操にかけるそれに勝るものとなった。

新クラブのシャルカーは次から次へと成功を収めていった。1926年に1部リーグ(ルール地方1部リーグ)に昇格を果たすと、同リーグでの初戦で勝利を収めた。そして1部に昇格した最初のシーズンで優勝し、初のタイトルを獲得した。シャルケはこのシーズンにルール地方のマイスターになっただけでなく、最終的に西部ドイツ準優勝も果たしている。これによりシャルケは、初めてドイツ・サッカー選手権の決勝トーナメント進出権を得た。

この成功の理由として、まずシャルケにとって初めての専属監督となったハインツ・ルーデヴィヒの名が挙げられる。次に外せないのはもちろん主力選手だったフリッツ・スツェパンとエルンスト・クツォラだ。生まれながらのシャルカーであり、後に義兄弟となるスツェパンとクツォラは、スピードのあるショートパスを用いたプレースタイルを完成させた。伝説的なシャルカー・クライゼルの始まりだ。

ルーデヴィヒ、スツェパン、クツォラ

チームが成功を収めると試合に観客が訪れるようになり、ケルン戦は22,000人、ビーレフェルト戦は24,000人、デュイスブルク戦は42,000人と、その数はどんどん増えていった。シャルケは以前と同じグレンツ通りのピッチを体操クラブと共用で試合会場としていたが、シャルケの試合日は多くのファンで溢れんばかりとなった。これを受けて、会長のフリッツ・ウンケルは1927年に「自分たちのスタジアムを作ろう」と呼びかけた。不況の当時において大胆な決断だった。しかし竪坑櫓“コンソリデーション”がスタジアムの建設地を提供し、ゲルゼンキルヒェン市も寛大な融資でクラブを助けた。市への感謝を表すために、クラブはFCゲルゼンキルヒェン=シャルケ04と改名する。そして建設開始から1年後の1928年晩夏に“グリュックアウフ=カンプフバーン”が初めて開門した。

新スタジアムができたことにより、シャルケは更に勢いに乗った。1929年に初めて西部ドイツのマイスターに輝くと、ドイツ・サッカー選手権では準々決勝に進出。そしてその翌年も西部ドイツリーグのタイトルを防衛した。しかしその直後、シャルケをスキャンダルが襲う。1930年8月、シャルケの高額の選手手当はアマチュア競技の理念に反するとして、西ドイツ・サッカー競技連盟がチームの中心選手14人に1年間の出場停止を命じたのだ。連盟は他のクラブに対しても同様に対応したが、このシャルケに対する厳しい処罰は見せしめの意味も持っていたと考えられる。シャルケの経営責任者であったヴィリー・ニーアは、絶望のあまり自ら命を絶ってしまった。控えの選手ばかりで構成されたチームで戦ったシャルケは、辛うじて2部降格を免れた。

1年後の1931年6月に出場停止処分を受けた選手たちが再びピッチに戻ってくると、シャルケは最多観客動員数を記録した。6月1日に行われたフォルトゥナ・デュッセルドルフとの親善試合には70,000人ものファンがグリュックアウフ=カンプフバーンに押し寄せた。シャルケはその次のシーズンに再び以前のような成功を収める。1932年に再び西ドイツ・マイスターとなったシャルケは、初めてドイツ・サッカー選手権で準決勝進出を果たした。その1年後にFCシャルケ04の黄金期が幕を開ける。シャルケは1933年から1944年までヴェストファーレン選手権で11連勝を飾り、その内の数回は2位に勝点差10ポイントをつける圧倒的な強さを誇った。これは同時に11シーズン連続でのドイツ・サッカー選手権の決勝トーナメント出場を意味したが、1932年から1942年にかけて、準決勝敗退となった1936年を除く全てのシーズンで決勝に進出した。シャルケはその9回のうち、1934年、1935年、1937年、1939年、1940年、そして1942年の6回で優勝を果たし、ドイツマイスターに授けられるトロフィー“ヴィクトリア”をシャルカー・マルクトにもたらした。1935年に始まったドイツカップでもシャルケは好成績を収め、5回決勝進出を果たし、1937年には優勝を収める。シャルケはこの年、ドイツサッカー界において初の2冠を達成した。

シャルケの圧倒的な強さの理由はいくつも考えられる。シャルカー・クライゼルはドイツで傑出したプレースタイルとなり、エルンスト・クツォラ、フリッツ・スツェパン、オットー・ティブルスキ、アドルフ・ウルバン、エルンスト・カルヴィツキ、ハンス・ボルネマン、オットー・シュヴァイスフルト、ハンス・クロット、ルディ・ゲレシュ、エルンスト・ペルトゲン、ヴァルター・ベルク、ヘルマン・エッペンホフなど、これを習得した選手たちも長くチームで活躍した。1933年から1938年までシャルケの監督だったハンス・“ブンバス”・シュミットは、能力の高い個々の選手を1つの優れたチームにまとめることに長けていた。