栄枯盛衰 1978年-1991年

1976年から1980年にかけ、シャルケでは4度に及ぶ会長の交代があった。ギュンター・“オスカー”・ジーベルトは9年間務めた会長職をカール=ハインツ・ヒュッチュに譲ったが、会員たちはハンス=ヨアヒム・フェンネを会長に据えるために、再びジーベルトを僅かの間会長へと引き戻した。“シャルカー情勢”は首脳部混乱のシンボルとなった。無理もない。会員たちはクラブの方向性を、紫煙やビールの匂いが立ち込める総会で気の向くままに決定していたのだから。

フェンネは1980年5月に多額の負債を背負ったクラブを任され、夏の準備期間にはロルフ・リュスマンやヴォルフラム・ヴットケをはじめとする中心選手たちの売却を強いられた。同会長は自身のサポート役としてルディ・アッサウアーを新たなマネージャーに据えたが、スポーツ面での没落をそれ以上食い止めることは出来なかった。シャルケは1981年6月13日をもって2部リーグに降格した。1部リーグで55年間プレーしてきたクラブにとって大きな衝撃だった。

2部降格は一度きりに終わらなかった。翌年1982年、直ぐに1部再昇格を果たすものの、チームの成績は再び下降の一途をたどる。リーグ戦を16位で終えたシャルケは、1983年6月に行われたバイエル・ユルディンゲンとの入れ替え戦の結果2部リーグへ降格した。だが憂鬱な出来事ばかりではなかった。ドイツサッカー史上に残る伝説的な1戦の1つに数えられるDFBポカール戦の準決勝で、シャルケの未来を担う新星が現れたのだ。18歳のオラフ・トーンはFCバイエルン・ミュンヘン相手に3ゴールを奪い、パルクシュターディオンに一筋の光明が差し込んだ。120分を戦いスコアは6-6。だが再試合の結果、シャルケは僅差で勝利を逃した。

1984年、チームは再び1部へと昇格する。だがこの時既に十分すぎるほど経験してきた残留争いは、まだ終わりを迎えてはいなかった。クラブ首脳部を支配していた騒乱こそが、その最たる原因だった。1986年には管理委員会がアッサウアーをマネージャー職から解任し、その数日後にはフェンネが一身上の都合で会長職を辞任した。ギュンター・ジーベルトが会員を再招集し3度目となる会長就任を果たすと、ロルフ・リュスマンがマネージャーに着任しクラブの舵取りを引き受けた。

加えてクラブは巨額の負債を抱えていた。トーンと元代表選手トニー・シューマッハーを中心に据え、多くの無名選手に定位置を争わせるという1987年のチーム構想は失敗に終わった。1988年、シャルケはリーグ最下位に沈み、3度目の2部降格が決まった。オラフ・トーンはバイエルンへと去り、シャルケで477試合を戦い最多出場記録を持つクラウス・フィヒテルはついに現役引退を決意した。フィヒテルは43歳184日までプレーしたが、これは今日に至るまでブンデスリーガ最年長記録となっている。

シャルケの一栄一落はその後も続いた。1988年には会員たちが会長ジーベルトに不信任を表明。1989年1月の臨時役員会議ではデュッセルドルフ出身のギュンター・アイヒベルクが新たな会長に任命された。フィールド上では、シャルケは2部リーグの最下位に位置するという悪夢に見舞われていた。だがディートヘルム・フェルナーに代わり1989年4月に監督へ就任したペーター・ノイルーラーがこの危機を回避した。残り10試合のうち6試合に勝利し、敗北を2試合に抑えたことで、残留を決めたのである。シャルケの選手はこのハッピーエンドを、ブラウ=ヴァイス・ベルリン90戦でスタジアムに集まった66,000人のファンと共に喜び合った。