神話 1904年 - 1923年

その日の午後、竪坑櫓“コンソリデーション”の陰に位置するハウアー路地のハインリッヒ・クルマンの家の庭には、10人の少年がある誓いをするために集まっていた。彼らの年は12歳から14歳。学生か炭坑やコンロ工場キュッパースブッシュで働く見習いの少年たちは、チームを作りストリートサッカーをしていた。しかし彼らにはある夢があった・・・。

その夢とは、地元ライバルチームの“シュピール・ウント・シュポルト1896”と対戦すること。エナメル靴を履いたギムナジウム学生相手に、真のダービーといえる試合で戦うことだった。この集まりで少年たちのリーダーであるヴィリー・ギースは、「もしも僕たちが本当にスポーツで何か成し遂げたいなら、クラブを作るべきだ!一緒にやりたい人は、僕が名前をこのノートに書くよ」と宣言した。ギースのノートには10人全員と新しいクラブの名前が記された:“ヴェストファリア・シャルケ”、クラブカラーは赤と黄色だった。

その後少年たちは数百メートル程先にあるハウス・ゴーアに向かい、荒廃した邸宅の草原でサッカーをした。ボールをしまって家に帰る前にヴィリー・ギースは「イングランドでは、この間のカップ戦に9万人もの観客が集まったそうだ。僕たちのクラブも9万人の前でプレーすることになるさ!」と仲間たちに語った。少年たちは笑いながらそれぞれの家に向かって歩き始めた。一日が終わりに近づいていく。1904年5月4日のことだった。

FCシャルケ04誕生の瞬間は、大筋においてこのようなものだっただろう。クラブ創立についての詳細は何も残されていない ― 創立メンバーとクラブの名前が書かれた伝説的なノートも、写真の一枚さえも。後にクラブ創立を記念して、口頭で伝えられてきたいくつかの逸話が新聞に載ると、それらの逸話が時を経るにつれてシャルカー・マルクトの神話になった。

できたばかりのクラブは創立後の数年で、西ドイツ・サッカー競技連盟に加入するために努力を重ねる。連盟に加入しなければ他のクラブと試合ができなかったためだ。しかし市民階級の影響が強かった連盟は、労働者階級の若者が作ったクラブに安定した持続的な発展を期待せず、シャルケの加入を拒否した。若者に頼まれてクラブ会長を務めていた竪坑櫓“コンソリデーション“の計量責任者で成人のハインリッヒ・ヒルガートさえ、連盟の決定を覆すことはできなかった。

1912年、ヴェストファリア・シャルケはやむをえず市民階級の“体操クラブ・シャルケ1877(TVシャルケ1877)”の傘下に入る。こうしてついに若者たちは試合ができるようになり、体操クラブが用意したグレンツ通りのピッチを試合会場として使用した。新しいアイデンティティーを得たことでクラブカラーも改められ、サッカー選手たちは1913年11月21日、新しいユニフォームを申請した。そのカラーは青と白だった。

第一次世界大戦は、長らく信じられたようにドイツ西部のサッカーの唐突な終わりを意味することはなかった。その反対だ。1915年夏、サッカーを愛するシャルカーは改めてヴェストファリア・シャルケという名前のクラブを創立する。TVシャルケ1877のサッカーチームとヴェストファリア・シャルケは1年間共存し、親善試合も行った。両チームは1916年7月、“統一戦時チーム・シャルケ”として統合される。終戦後、両チームは再びそれぞれ独立したチームとして活動しようと試みた。しかしTVシャルケ1877とヴェストファリア・シャルケは1919年5月に再び1つのチームとなり、クラブ名も“体操・スポーツクラブ77(TuSシャルケ77)”と改められた。

TuSシャルケ77は1920年、2部リーグ昇格を果たす。2部昇格に貢献したのは長年キャプテンを務めたトーマス・シュトゥデントだけではない。特にイングランドで育ったハンスとフレッドのバルマン兄弟はシャルケのサッカーに革命を引き起こした。彼らが確立したポジションを素早く変更しながらショートパスを繋ぐプレースタイルは、後に“シャルカー・クライゼル”と呼ばれ、サッカーファンの記憶に残ることになる。1922年、クラブはあと少しというところで惜しくも1部リーグ昇格を逃した。その後の数シーズンは連盟によって決定された昇格禁止により、TuSシャルケ77は1部に昇格できない状態が続いた。サッカー選手たちはこの間に体操クラブからの独立を決断した。